昭和三十九年十一月九日 朝の御理解
一,神と仲良うする信心ぞ
神と仲良くする信心ぞ。神から離れるようにしてはならぬ。神様と仲良うしていく信心 とはどういう信心か。
これは親子仲ようしていく信心ぞというような事も親子仲ようする。親子仲ようしてい く。
御神前に出らして頂いたら、お百姓さんの親子らしい、畦道に腰を掛けながら何か兎に 角楽しげに話し合っておられる姿を頂く。同じお百姓をさせて頂きながら畦道に腰を掛けて話し合っておる。何か、しかも楽しげに話し合っておられる。
親の事は子が願い子の事は親が願い、あいよかけよで立ち行く。その親と子が願い合い 頼み合いしていく。そこに一つ、私、親の事は子が願い子の事は親が願い願い合い頼み合い、同時に親と子が信じ合うていくという事
教祖の神様の御教えの中にも「神を信ずる氏子は多いけれども神から信じられる氏子が 少ない。」段々神を信じていく、神様の間違いなさを分かってくる信者は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと。
私はもう子供を信じ親を信じ、そこからしか今私が御心眼に頂いたような感じ。同じ百 姓仕事なら百姓の仕事をしながら、親子の者が畦道に腰をかけてから本当に睦まじう仕事事かなんのこつか分からないけど話し合うているような姿。そういうようなおかげを頂かなければいけない。
そこで、私共が段々分からせて頂きます事は、神様信じるところの力が段々出来てくる という事は有難い事ですけれども。神様から信じられるところの私共にならせて頂くおかげを頂かなければ、私共と神様とが仲睦まじゅういわゆる神と仲ようする信心ぞという事になって来ないのじゃないかと。
神と仲ようする信心。親は子供に求める、子供は親に求める。これではいけない。親は 子供に子供は親に与えようといっていく事。そこに私は親と仲ようする信心と、ま、ゆうなら神と仲ようする信心というような味わいが分かって来るのじゃないかと。
神様を恐れるようにしてはならぬ。神様に近付かなければならぬ。神様と仲ようする信 心。神様を恐れる人がある。
昨夜、青年部会十九名集まったそうです。十九名おかげ頂いたと、熱心な共励をされた 後で、二階から降りてみえたのがもう十一時半位だったでしょうか、それからしばらくそこで色々お話させて頂いたんですけれど。
本当に皆さんが神様を信じて一生懸命その信心の道を分かろうと努めておられるのが、 しかも生き生きとして本当に心強い。有難いものを感ずる。どうぞ、この人達が神様から信じられる氏子になっていきなさらにゃならんという事をしきりに思うたんです。
久留米の石井さんが言うておられました。「もう、この神様は非常に情に脆い神様だ。 どう〔か〕する〔と〕この神様はプリプリ腹かきなさる神様だ、ち。すると、もう、すぐ腹かいちからと思うと、今度はもう本当に情にもろい神様だ」ち。
ま、そんなふうに表現しておられましたが、皆さんはどんなふうでしょうか。この神様 をそういうような実感をもって感じられる神様だというふうに感じられるかどうか。それには、私共がどうしてもその神様に接近するという事はどういうような事か。例えば、私こんな事を感じ、また神様にそれからヒントを頂いた事があるんですけれども。
z濡れ布巾をちょと乾かさなければならなかった。火鉢の上でこう、濡れ布巾を乾かす。 どんどん乾いていきます。こんな所に、ここに火があるならこんな所に置いとちゃなかなかよう乾かんというてです、この濡れ巾がですね乾いておるのであったらもちろん乾かす必要はないのでしょうけれども。この火の側に寄る事は出来ない。寄ったら、ポッと燃え上ってしまう。これが結局濡れておるから火の側に持ってゆく事が出来る。もう乾かさんでもほんの火の、こう墨がおきておる側に持っていってからしてもどんどん乾いていくだけであって、それが燃えない。
はあー、めぐりが深ければ深い程おかげが大きいとおしゃるような事は、こんな事だな あと私は思った。
自分が濡れておれば濡れておる程、神様に近付いていけるという事です。まあ、例えば 私共がお布巾の例えにしたらいい。濡れた布巾だと思うたらいいですね。乾いた布巾は、側に寄られん。側に寄ったら、ポッと燃えてしまう。濡れているおかげで火の側に持っていっても、それが焦がれもしなければ燃えもしない。乾いていく、乾いてきた頃にはですね。神様のいうなら神の火の側に寄っているから、誰よりも神様に接近していわば見たり聞いたりしておる事が出来るという事である。
ですから、私は神に近付くとか、神と仲ようするという事はそういうようなところから 、神と仲ようする信心が生れて来るのではなかろうかと。
神を恐れてはならぬ。だから、近付こう近付こうと思うならばどうならなければならな いか本気で自分という者を分からしてもらい、自分のめぐりの深さ、めぐりの自覚という事。
自分の子供の中に屑の子がおれば、その屑の子が可愛いのが親の心だとこうおしゃって おる。
例えば難儀をしている、世の中には難儀な氏子が沢山ある。金がなくて難儀をしている 人もありゃ、人間関係で苦しんでいる人もおる。又は、病気で苦しんでいる人もあるという事が、私は屑の子ではないと思う。 神様の目から御覧になるという事は、神様と私共との間に私共ほど屑の子はあるまいと 自覚にたった事だと私は思う。自分のような屑の子はおるまい。屑の子の自覚にたった時、屑の子としての神様の働きというものがある。
そこから、私は神様に近付く、いよいよ近付く事が出来る。しかも、その神様の心の底 が段々分かって来る。神様が子供可愛いと氏子可愛いというご一念であるという神である事が、いよいよ接近しなければ分からない。そこから、私は神と仲よう、仲ようする信心が生れてくるのじゃないかとこう思う。
私は今日頂きましたように、親子の者がですね畦道に腰を降ろしてから、そりゃもう仲 睦じゅう話し合っておる。そういう雰囲気で私共と神様が、この神様と私共が話し合うていけれる。
教祖の神様に、神様がその一礼を申すとか、神の頼みとか、神様の神様が氏子に礼を言 うてござったり、又はそのお咎めなさっておったり。
実はこんなわけだが、こりゃどんなふうにしたらよかろうかと親が子供に相談する。そ りゃ、こんなふうにした方がいいじゃなかろうかと言う。親は若いものの意見を聞いたり、又は若い者は年寄りの経験を積んだ話を聞いて、そうかもしれません、子と話しおうていけれるというような雰囲気が、私は神様と私共との中に出来てくるようなおかげを頂いたら有難いなあと思う。
それには、やはり神様に接近しなければならない。神様に接近するという事は、私共が めぐりの自覚、自分が濡れているという自覚が立たなければ傍には寄れないという事。傍に寄って初めて、神の正体を見極める事が出来る。いわゆる神愛を知るという事はそういう事だと思う。
そこから、私共は神も助かり氏子も立ち行くという道がある。親の事は子が願い子の事 は親が願いと。
どうでしょうか皆さん、どうぞおかげを頂きたいと願いはしても、神様が立ち行かれる ような願いをなさる人は少ないと。いうなら、ここで十三日会でいつも申しておりますように神様の願いに応え奉るというような在り方の人は少ないと思う。
神様は、何か特別な力を持っておられる神様であるから、その神様に無理をいうたり願 ったりしてから、その頂こう頂こうではなくてですね。この力を持っておられる神様とは親子の中であると言う実感です。
その実感の中に(キヨシさん)の言われるように、本当に情に脆いお方だとか、プリプ リ腹かきなさるお方だとかいう事が分かるようになってくるのじゃないかと思う。
そこで、こげんこつしたら神様が腹かきなさる、こげんこつしたらもう馬鹿んごとなっ て喜びなさるという事が分かってくるのじゃないですか。そして喜んでもらえる在り方になって来るから、私は神様からある氏子はもう大丈夫と信用されるだけではなくて、神が一礼申すとか、神様が頼んで下さる。頼んで下さるというような事にまでなってくるのじゃないでしょうか。
まあそういう事になったら、親の事は子が頼み子の事は親が頼み頼み合っていけれる。 畦道に腰をかけてから、同じ仕事をしているお百姓さん達親子が仕事か世間話か知りませんけど、仲よう睦じゅう話し合うておられるような雰囲気の中に、いよいよ信心を進めて行く事ができる。確かに、そういう実感をもっておかげを頂いて行かなければいけないと思うね。
いつでしたか草野の秋山さんが言うておられました。何か御神前に座らせて頂いたら神 様がクスクス笑いよんなさる気がした。そんなら、こちらもクスクス笑いだしたい気がした。交流しておる、なんかそういうようなものが育って行くようなお繰り合せを頂かなければならんね。
為に、いよいよ神様に接近させてもらう、神に近付く信心。神を恐れてはならぬ、神と 仲ようする信心だからと、神様と仲ようしようといったけど仲よう出来るもんじゃない。今日、私が申しましたような内容です。
めぐりの深い自覚と、そうでしょうがじっくりと濡れた布巾を火鉢の傍に持っていって も燃え上がらないでしょうが、だからじっくり濡れておる自覚です。だから〔そうで〕なければ神様の傍に寄る事は出来ないという事です。
ただ自分の願いだけを申し述べる事が信心でないと、神様の願いを聞かんならん。さあ 、神様の願いを聞こうと思った。神様が願いなさっても傍によらなければ聞こえないという事、妙なもんですよ。
私と皆さんの場合だってそうです。ここで修行しておる修行生、先生方でもそうです。 本当に、やっぱり親でも痒か時もありゃ痛い時もある。ちょいと済まんけど、これ掻いてくれんのと言いたいと思うてもですね。そういう雰囲気がなかったら言えるもんじゃないです。
ですから、兎に角その神と仲ようするという信心がなからなければ。だから神様も、親 も子供もちょいとこれしてくれと気安う頼まれるような状態になったらですね。また、今度、子供の方だって気安うあれどげんでしょうか、これどげんでしょうかとこういって伺うたり、また頼んだりする。また、サラサラした気持ちの中で出来るという事。
願っていい事でもどうぞという、願うだけじゃいかんという事。そういう信心だけじゃ いけない。そう、そりゃ心の中で思っておる事も神様は聞き届けて下さっておるというようなおかげも頂く、為に、いよいよ神と仲ようする信心。それはちょうど親子が仲ようする信心と同じ事。
しかも、私が今日御心眼で拝ませてもらうような。また、そういうような状況を一つ思 い浮べて見て御覧なさいね。
お百姓さん親子が、畦道に腰かけて仲睦じゅう話しておる、親子で話しあっておる。見 た目もこげな気持ちの良い事はないですね。そういう信心を身に付けていきたいと思いますですね。おかげを頂き(?)